第 32 回総会兼平成 30 年新年会 のご報告

平成30年1月21日(日) 於ホテルグランヴィア大阪 20階 55名様参加
総会・講演会 「名庭(なにわ)の間B」
懇親会 「名庭(なにわ)の間A」

 
第一部 総 会 議 事 16:00〜16:30
議 長 : 関西東大会 会長 北 修爾
第 1 号 議 案 平成 29 年度 事業報告 (河野代表幹事)
平成 29 年度 決算案報告 (安原会計幹事)
平成 29 年度 会計監査報告 (寺田会計監事)

 

第 2 号 議 案 平成 30 年度 事業計画案 (河野代表幹事)
平成 30 年度 予算案 (安原会計幹事)
(「基金財産の一部を運用財産に組み入れる件」及び
「30 周年記念事業会計を廃止する件」を含む)

 

第 3 号 議 案 会則変更の件 (河野代表幹事)
 関西東大会会則
「第 2 条 本会は事務所を大阪市に置く。」 を
「第 2 条 本会は事務所を関西地区に置く。」 に 変更する。
 以上すべての議案は原案通り承認いただきました。
ご報告 平成 30 年度 幹事の異動の件 (河野代表幹事)

 

 

第二部 講 演 会 16:30〜17:30
講 師 : 廣田 吉崇 氏
演 題 : 「茶の湯文化の歴史」

 


第三部 懇 親 会 17:40〜20:00
開 会 挨 拶 関西東大会 会長 北 修爾
来 賓 挨 拶 東京大学理事・東京大学副学長 松木 則夫 様
乾 杯 関西東大会 副会長 辰野 克彦
来 賓 紹 介 東京大学同窓会連合会 代表幹事 岡崎 一夫 様
 東京大学社会連携部卒業生課課長 中丸 典子 様
地域同窓会・団体代表ご紹介
東海銀杏会 渉外担当幹事 吉村 光正 様
 大阪京大クラブ 会長 辻 一郎 様
 大阪京大クラブ 常任理事 並木 宏徳 様
イベントのご紹介
 夏の講演会 (小林良洋幹事)
ゴルフ同好会 (夏住 副会長)
男も料理教室 (渋谷 世話人)
応 援 歌 「ただ一つ」斉唱
閉 会 挨 拶 関西東大会 副会長 夏住 要一郎 

 

北会長 挨拶

 

松木東大理事・副学長よりご祝辞をいただきました。 

 

 

講演会(講師 廣田様)

 

ご来賓、各団体ご代表のご紹介(中央は岡崎連合会代表幹事)

 

 

 講演会「茶の湯文化の歴史」(要約) 講師 廣田 吉崇(昭和 60 年法学部卒・兵庫県職員)
今日は茶の湯文化についてお話しいたします。といっても「お茶の心」というような精神的な話ではありません。
そういう意図もあって私は「茶道」ではなく、古い言葉である「茶の湯」を使います。お話しする内容は、)茶とは何か、△匹Δ靴篤本に抹茶が残っているのか、J顕愁淵轡腑淵螢坤爐了訶世ら喫茶文化を見る、の三点についてです。

 


1.抹茶とは何か
ご承知のとおり、紅茶も緑茶もウーロン茶も同じ茶の木の葉から作られます。ただ、摘みとった茶葉を発酵させるか、させないかのちがいです。緑茶は発酵をさせません。そのために茶葉を加熱して酵素の働きを止めます。加熱の方法には主に二つあります。すなわち、日本茶は主に蒸す方法、中国茶は釜で炒る方法です。
蒸す場合にも二通りあります。蒸した茶葉を平たいまま乾かして、葉脈をとったものを、碾茶(てんちゃ)といいます。これを茶臼で挽くと抹茶になります。一方、蒸した茶葉を揉捻したものが煎茶や玉露です。茶葉をもむことにより、茶葉の組織が破壊されて、エキスが出やすくなります。
歴史的に見てみましょう。そもそも中国の喫茶法の歴史には、三つの段階があります。すなわち、‥眤紊涼鎮稻 弊茶法):固形の茶を粉末にして煮出して飲む方法、∩廖Ω蟻紊遼茶法(点茶法):粉末の茶に湯を注ぎ、攪拌して飲む方法、L逝絨聞澆涙暫稻 碧茶法):茶葉を湯に浸して、湯に溶け出したエキスを飲む方法です。大雑把に結論を先にいえば、中国では→→と推移していきますが、日本ではとともに△諒法が残って、茶の湯という独自の文化になったのです。
 この三通りの喫茶法はそれぞれ日本に伝わりました。日本での喫茶の歴史について遡ると奈良時代の聖武天皇のころの文献に出てきますが、実態は不明です。平安時代初期の 814 年に嵯峨天皇が藤原冬嗣邸に行幸したとき、漢詩に茶が詠まれました。その文言から明らかに団茶法と考えられます。翌 815 年には近江で永忠が嵯峨天皇に献茶をしました。この少し前の桓武天皇のころ、比叡山延暦寺を開いた最澄が茶の実を持ち帰ったという伝説があり、最澄が植えたと伝える日吉茶園が現在も近江坂本にあります。
奈良時代の話に関連しますが、平城遷都 1300 年記念行事の一環として 2010 年に天平茶会のイベントがありました。イベントとはいえ、このとき奈良の煎茶家中谷美風氏は『茶経』の記述にしたがって、陸羽の茶の忠実な復元を試みられました。私も飲んでみましたが、かなり強烈にカフェインが効いている感じがしました。当時の人ならばカフェインに酔っただろうと思います。
肝心の抹茶法ですが、栄西が中国から持ち帰ったとされています。そして 1214 年に鎌倉将軍源実朝に茶を献じ、『喫茶養生記』を献呈しました。このころの喫茶の歴史を物語るものとして、西大寺の大茶盛があります。大きな茶碗で抹茶を飲むことで有名です。また、栄西が建立した建仁寺では四つ頭の茶礼という行事が現在に伝えられていて、当時の抹茶法を思い起こさせます。
日本における抹茶法による喫茶は、こののち寺院から出て、「闘茶」とし庶民にまで広まり、唐物の美術品の鑑賞と結びついて「会所の茶」となり、さらに珠光、武野紹鷗、千利休が出て「わび茶」へと発展しました。以上で、抹茶とは何かの説明を終わります。

 


2.どうして日本に抹茶が残っているのか中国では消滅した抹茶法は、とくに抹茶自体に改良があったからこそ、日本では茶の湯を通じて今日まで残ったと考えます。具体的には、〆惑殃法の改良、∧緩にする方法の改良(茶臼の改良)、C邃Δ硫良が
あげられます。


(1)栽培方法の改良
茶畑の中に黒い覆いをした部分が見られます。覆いのある茶園を覆下園(おおいしたえん、ふっかえん)といいます。黒いものは寒冷紗という日光を遮るもので、これで 90%の遮光をおこないます。より伝統的な方法では、「簀下十日、藁下十日」といい、葭簀を掛けて十日間、さらにその上に藁を敷きつめて遮光度を高め十日間、合計二十日間遮光します。極限状態におかれた茶の木は、日光を求めて葉を薄くします。そして、苦み成分よりもうまみ成分が多くなります。これを手摘みして碾茶に作られます。ちなみに、このような覆下園で育てられた茶葉を蒸して揉捻すれば、玉露になります。
日陰にある茶の木の茶がおいしいことは、中国の『茶経』にも書いてあります。しかし、覆いをすることは、おそらく日本で発展した技術でしょう。16 世紀末に日本に滞在していたポルトガル人ロドリゲスが、『日本教会史』の中にこの情景を記しています。
 実は、茶会では二通りの点て方をした抹茶を飲みます。ふつう抹茶といいますと、お茶とお菓子があって、一人ずつサービスされます。これは薄茶です。もう一つの点て方が本当のお茶で、濃茶といいます。 かつて碾茶は茶壺に詰めて保存されました。初夏につくられたお茶は、ひと夏越した方が味はまろやかになっておいしいのです。ちなみに煎茶でもこれは同じです。新茶は香りがよいのですが、味は鋭い感じがします。そして初冬に茶壺の封を切って使い始めます。これを口切りといい、茶の湯の行事になっています。この茶壺の中に紙袋入りの濃茶用の碾茶が入っていて、そのまわりをいわば緩衝材代わりに薄茶用の碾茶で満たします。こ
のように濃茶と薄茶では扱いが大いにちがいます。点てられた濃茶はどろっとした状態の濃厚な茶です。これを複数人で回し飲みします。歴史的には「吸い茶」といい、千利休が始めたとされています。要するにこれほど濃くして飲めるということは、覆下園でつくられた茶の品質がいかに優れているかを示しています。中国の宋代の抹茶法がどのようなものか、もう一つはっきりしな
いのですが、日本の茶の湯の抹茶と同じものではないと思います。このような技術革新があったからこそ抹茶が現在に伝わりました。そして技術革新がおこなわれた生産地宇治の地位を高めました。

 

(2)粉末にする方法の改良(茶臼の改良)
粒度が荒い抹茶だと、すぐ沈殿する、あまり泡が立たない、口腔内でざらつき感があるなどでおいしくはありません。現在の日本の茶臼は、上臼と下臼の隙間が狭く、茶臼の磨り面の周囲に溝が切っていないなど、極めて精巧に作られており、粒度の細かい抹茶が得られます。これはおそらく碾茶の発展とともに日本で改良されたものと思います。現在でも茶の湯で使う抹茶は、茶臼で挽くのが細かすぎず、荒すぎず、ちょうどよいのです。茶商では電動でたくさんの茶臼を回して碾茶を抹茶にしています。ただし、抹茶アイスクリームとか抹茶ケーキとかに使う加工用抹茶は、粉砕機で粉末にしているものもあります。今ではこうした加工用抹茶の生産が伸びています。 

 

(3)茶筅の改良
 中国宋代の抹茶法では、茶の粒度が荒かったと考えます。これを裏付けるように、宋代の喫茶法に関して、攪拌する道具の説明は一、二の書物にしかありません。
 現在の日本の茶筅は、内穂と外穂との二重構造の、繊細な作りになっています。この二重構造のもっとも早い事例は、愛知県の岩倉城趾(1559 年落城)から発掘されたものとされています。それよりも遅い一乗谷朝倉氏遺跡(1573年落城)からも出土事例があるものの、二重構造になっていません。するとちょうどこの頃一重構造の茶筅から二重構造の茶筅へと変化したのではないかと推測されます。
まとめてみますと、日本に伝来した抹茶法は、中国文化(喫茶法および道具)へのあこがれから、茶の湯という文化に統合されました。その中で味の追求がさらに進み、栽培方法の改良、茶臼の改良、茶筅の改良などにより、現代にいたる姿に変化したのでしょう。
中国の明代には、さらに進んだ、というか簡便な飲み方である、淹茶法(泡茶法)に移行します。急須に茶葉を入れ、湯を注ぐ方法です。日本でもこの喫茶法が中心になります。江戸時代中期に売茶翁・高遊外が出て煎茶道というものが起こりました。その後さらに発展して流儀化しました。現在でも数多くの流派があり、愛好者はいますが、その規模は抹茶と比べてはるかに小さいといえます。

 

3.文化ナショナリズムの視点から喫茶文化を見る
(1)『MTMJ―茶道建国論』
 私は Kristin SURAK の Making Tea, Making Japan: Cultural Nationalism in Practice(2013)という英文の茶の湯の研究書を翻訳しており、近々出版の予定です。この本の内容は、.諭璽轡腑鵑魘饌硫修垢觴匆馘作業を「ネーション・ワーク」と名付け、△修粒鞠阿巴磴療鬚領鮖法現在のあり方を説明し、そして外国の事例を挙げて、茶の湯がもっとも成功している事例だと結論づけています。
この本は非常に難しく書いてあるように感じました。ごく簡単にいえば、ネーション=国民を形成する時期に、今までバラバラだった社会集団は自分たちが一体の国民であるという認識をもつ必要があります。そのアイデンティティを感じさせるものが「ネーション・ワーク」であり、日本ではそのひとつが茶の湯である、という議論を展開しているのです。
 近世の日本には、国民という概念はなく、身分に分かれ、住む地域に所属していました。ただし、近世の茶の湯についていえば、武士には必須の教養であり、豊かな町人・農民層にも広まっていました。近世は階級社会ですが、茶の湯のような美を通じての「身分を越えた交流」が実現していました。

明治維新により近代国民国家が建設されます。天皇の下で全国民=日本人になり、そして日本人なら、かくあらねばならぬことが求められました。そのモデルに反する日本人は、非国民として差別化されるのです。この過程において、茶の湯は「国民共通の文化」としての地位を獲得します。この本ではゞ畭綽寄者という近代ブルジョアジーが茶の湯を好んだこと、⊇子への礼儀作法の教育の一環として茶の湯が利用されたこと、F本らしさの象徴としての近代知識人が茶の湯を評価したこと、の三点を指摘しています。について、代表的なものは岡倉天心の『茶の本』です。茶の湯が日本の象徴であるという言説を世界に広めました。『茶の本』は元々英文で書かれたので、1929(昭和4)年に岩波文庫に日本語訳が入ってから、日本国内に大きな影響力を持つことになります。
 そして、第二次世界大戦後も文化国家としての日本の象徴として、さらに地位を高めました。すなわち、この本は“文化ナショナリズムとしての茶の湯”を主張しているのです。


(2)東アジアの喫茶文化と文化ナショナリズム

私自身茶の湯愛好者として、このような見方はあまり面白くありません。しかし、考えてみますと東アジアでは同様の動きが見え隠れしています。
 現在見られる「台湾茶芸」は、1970〜80 年代に台湾において編み出されたものです。もっぱら輸出向けの台湾の茶生産は、大陸の茶輸出との競争に敗れ、しかも 1971 年に国際連合を追われ、アメリカ、日本との国交断絶により政治環境が変化して、輸出が激減しました。そこで国内の茶消費を拡大するために「台湾茶芸」が創出されたのです。これは新たな台湾の伝統文化を創出する意義もありました。
 一方、喫茶文化の本場であった中国は、茶葉をソ連などへ輸出し、工業製品購入のための貴重な外貨を獲得しました。このため生産を拡大しながら、国内では贅沢品として消費を厳しく統制しました。ところが急激に栽培面積を広げた結果、過剰生産になり、1980 年代はじめには国家の倉庫に茶葉が滞留して消費されない事態にいたりました。
そこで茶葉の流通体制を改革し、国内消費を拡大する政策に転換しました。この際に台湾茶芸をモデルに「工夫茶(コンフーチャ)」などの中国の茶芸が創出され、「茶文化」を再構築する文化的戦略がとられました。 この経緯は、王静『現代中国茶文化考』2017 年に詳しく紹介されています。いずれも茶葉の消費拡大が直接的な契機ですが、それ以上に民族の伝統文化の復興が目的とされています。これらの茶芸は明・清代の喫茶文化がそのまま伝わったものではないのです。


(3)韓国・朝鮮の喫茶文化への疑問
 しかしながら、よくわからないのが韓国・朝鮮です。かつて喫茶がおこなわれたことは確かですが、李氏朝鮮が儒教を国教とした際に、仏教色のある喫茶文化は途絶えたと考えられています。そして朝鮮半島は気候が寒冷のため、茶の木が育ちにくいという問題もあります。にもかかわらず、韓国では茶文化とか、茶道とかは盛んにおこなわれています。私も韓国の茶文化団体との交流会に出席したことがありますが、蓮の花やら、クコの実やら、何かの乾燥させた葉っぱやら、いろいろな飲料を“茶文化”と称していました。
 たまたま私は台湾で韓国茶道の翻訳書を購入しました。抹茶を使った点前が書いてあり、二重構造の茶筅の図が見られます。抹茶法が中国から周辺国に伝わったことは歴史的事実です。しかし、抹茶法は日本において独自の発展をとげた結果、茶の湯という姿になって日本だけに残っているものです。その成果の上にある抹茶なり、茶筅なりをそのまま使って“復元”と称することは、歴史をいつわるものといわざるを得ません。このような韓国の“抹茶文化”を私自身実際に目にしたこともありますし、ネット上ではいくつも記事があります。二重構造の茶筅を横置きにしたり、立てて置いたりしています。こういうものを見て、韓国にも抹茶が伝わってい
ると考えてはいけないのです。エリック・ホブズボウムは『創られた伝統』という本のなかで「『伝統』とは長い年月を経たものと思われ、そう言われているものであるが、その実往々にしてごく最近成立したり、また時には捏造されたりしたものもある」と述べ
ています。このような理解は、学問の世界では当然のことです。しかし、研究をしているからこそ、疑問に思うことができるのです。茶の湯の研究といいますと、暇人の道楽みたいに思われますし、私自身半ばそう思っていましたが、この本の翻訳を通じて東アジアの文化ナショナリズムの渦の中に巻き込まれていくような気がしております。


 以上で、私の話を終わります。ご清聴ありがとうございました。 

 


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昨夏(2017 年8 月27 日)開催の「夏の講演会」資料の掲載について

《お詫び》

昨夏(2017 年 8 月 27 日)開催の「夏の講演会」の報告記事の掲載が今までできておりま せんでした。申し訳ございません。当日の写真がございませんので、当日配布致しました 資料の抜粋を掲載いたします。(講師の正岡明先生からいただいた資料の抜粋です。) 開催日時: 2017 年 8 月 27 日(日) 開催場所: ホテルグランヴィア大阪 20階 44 名様ご参加 講師: 正岡子規研究所 主宰 正岡 明 氏 演題: 「坂の上の雲」の時代〜子規・律・漱石・秋山兄弟〜」

 

 

(クリックすると拡大します) 

 

 


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倉敷・大原美術館見学会ご報告

河崎 晋也(平17工)

 

2017年11月12日に倉敷・大原美術館見学会が行われ、天候にも恵まれた中21名の方々が参加されました。
倉敷美観地区にある有隣荘、大原美術館を見学いたしましたが、大原家旧別邸の有隣荘では、関西東大会会員でもある大原謙一郎 大原美術館名誉館長様に直接説明していただきました。

 
有隣荘の特徴である瓦は、(中国風にも見えますが)実はスペイン風のものであるといった建物についての興味深い内容とともに、「戦後直後、天皇陛下が皇太子のころに有隣荘に滞在された時のエピソード」など、普段の説明ではうかがうことのできない内容を教えていただけました。

 
最後に大原様が「倉敷は民衆が主導してまちづくりが行われた。」と強調されたことが、心に深く残りました。

続いて、大原美術館の新館としての利用に向けて改装中である、旧中国銀行倉敷支店の内部を特別に見学させていただきました。

その後、各自自由行動として大原美術館を見学いたしました。

 
エルグレコの「受胎告知」をはじめとして著名な収蔵品の数々や、規模の大きさもさることながら、収集の幅の広さ(時間軸においても古代オリエントの遺物から将来アーティストの育成まで)に圧倒され、時間が足りないと感じるくらいでした。

 

倉敷美観地区を散策しながら、最後にアイビースクエアにあるレストランでの懇親会をひらきました。明るい陽射しの中、おいしい料理と地元の日本酒に舌鼓をうちながら、懇親を深めることができました。天気に恵まれ、濃密で素敵な一日となりました。

 

 

大原美術館正面にて、大原謙一郎名誉館長様と


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春風亭昇吉落語会のご報告

 

代表幹事 河野 裕亮(昭53年経)

 

 

日時:平成29年5月20日(土)
16時 開場、16時半 開演、17時半 懇親会
場所:中央電気倶楽部:大阪市北区堂島浜2-1-25
主催:東大三鷹クラブ
後援:関西東大会(創立30周年記念イベント)

 

 


東大三鷹クラブ(東大三鷹寮入寮者の同窓会)の主催で春風亭昇吉さん(2003年三鷹寮入寮・経済学部卒)の落語会が開催され、関西東大会創立30周年記念イベントとして後援いたしました。
当日は、東大三鷹クラブ・関西東大会・大阪京大クラブ様から計48名様が来場されました。

 

春風亭昇吉さんの演目は
「片棒」
「たが屋」
の2つで、威勢のいい江戸落語を楽しみました。

 

落語の後は、会場を3階に移して昇吉さんを囲んでの懇親会を開催いたしました。
久しぶりにお会いする方の間で、思い出話に花が咲き、また御夫婦でのご来場の方も5組おられ、和やかな雰囲気に時のたつのも忘れ、あっという間にお開きとなりました。

 

 

 

 

 

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関西東大会創立30周年記念第31回総会 兼 平成29年新年祝賀会 報告

 

関西東大会第31回総会兼新年祝賀会が、創立30周年記念大会として下記の通りに開催されましたので、報告致します。

 

 

 

日 時:平成29年2月5日(日) 16:00〜19:30
会 場: ホテルグランヴィア大阪 20階 宴会場 「鳳凰の間」 「名庭(なにわ)の間」
出席者:113名

 

 

【第1部 会員総会】 16:00〜16:30 

 

代表幹事 河野 裕亮(昭53経)


中島幹事の司会で開会となり、まず、議長の選出に入り、北 修爾 会長を総会の議長に選出しました。予め、配布されていました資料を基に下記3件の議案について討議しました。

 

 

第一号議案 平成28年度(平成28年1月1日〜平成28年12月31日)の下記書類の報告と承認の件
−1 平成28年度事業報告
−2 平成28年度会計報告
−3 平成28年度決算書類 会計監査報告

 

第二号議案 下記書類の報告と承認の件
−1 平成29年度事業計画案(平成29年1月1日〜平成29年12月31日)
−2 平成29年度予算案(平成29年1月1日〜平成29年12月31日)

 

平成29年度〜30年度 役員・幹事の人事の件

最初に、日笠代表幹事から平成28年度の事業報告があり、続いて安原幹事から会計報告、 寺田会計監事より、会計監査報告がありました。
引き続き、日笠代表幹事より平成29年度の事業計画案の説明があり、続いて安原幹事から 予算案についての説明がありました。
最後に河野代表幹事より平成29年度〜30年度 役員・幹事の人事の件について、退任・新任・再任についての人事案(一部役員は会長・副会長の協議により選任)の説明がありました。

議案ごとに会員に承認を求めたところ、各議案とも拍手をもって全員異議無く承認されました。これをもって会員総会は終了いたしました。

 

 

【第2部 講演会】 16:30〜17:30

 

副会長 夏住 要一郎(昭48法)

 

 

東京大学前総長濱田純一先生より「法と人間像」という演題で、約40分間のご講演をいただいた。
「法は一定の人間像を期待している」ということから始まり、そこで想定される「人間像」が時代とともに変遷していること、そして現代における個人と社会(コミュニティ)の関係の日米比較に進み、最後に、同窓会が両者をつなぐものとして役割を果たしうるとの話で了えられた。短時間ではあったが、数十年ぶりに大学での講義をお聞きした思いで、懐かしくも新鮮で刺激的な時間を過ごすことができた。
その後に、関西東大会顧問の西育良会員より「関西東大会30年の歴史と草創期の思い出」という演題で20分間弱のご講話をいただいた。
同会員は、30年前の創立総会の時から関与され、その際の想い出から、その後公認会計士としてのお仕事と関西東大会とのかかわりのお話をいただき、同窓会活動が会員にとって有意義なものであることを訴えられた。

 

 

 

【第3部 懇親会】 17:40〜19:30

 

代表幹事 河野 裕亮(昭53経)

 

懇親会会場に移動ののち、中島幹事の司会で第3部の懇親会が開会となり、北 修爾 会長の開会の挨拶のあと、ご来賓の東京大学卒業生室担当理事・東京大学副学長 古谷 研 様にご祝辞を賜りました。
そして辰野 克彦 副会長の乾杯の音頭とともに、音楽ユニット「かさねいろ」のお二人によるヴェルディの椿姫の乾杯の歌とともに、賑やかな食事歓談が始まりました。
今年は創立30周年記念大会なので、東京大学本部、同窓会連合会はじめ、各地域同窓会・友好団体にご案内を致したところ、ご多用にも拘わらず、講師の濱田純一前総長、古谷研理事・副学長の他に下記の方々にご出席いただきました。

 


東京大学同窓会連合会 代表幹事 岡崎 一夫 様
東京大学同窓会連合会 事務局長 長嵜 新一 様
東京大学 卒業生室 ディレクター 森 和博 様
岡山東大会 会長 河原 昭文 様
奈良東大会 会長 木部 義人 様
和歌山赤門会 会長 田辺 善彦 様
徳島東大会 会長 桐野 豊 様
東京銀杏会 代表幹事 岩村 敬 様
東海銀杏会 代表幹事 浅野 晴彦 様
広島赤門クラブ(赤門鉄声会) 槙本 良二 様
香川銀杏会 事務局長 加藤 宏一郎 様
大阪京大クラブ 会長                   高月 清 様
大阪京大クラブ 副会長 辻 一郎 様
大阪京大クラブ 常任理事 並木 宏徳 様
大阪京大クラブ 山内 潤三 様
大阪京大クラブ 中村 誠 様

 

 

「かさねいろ」のお二人のすてきなピアノと歌に聞きほれながら、会食・歓談の後、ご来賓の方々や新任の名誉顧問の太田房江参議院議員にご祝辞をいただきました。
そして、恒例の東京大学応援歌「ただ一つ」を、広島からお越しの 東京大学応援部OB(昭和58年度応援部主将)槙本 良二 様の迫力ある指揮の下全員で斉唱いたしました。
最後に夏住 要一郎 副会長が、閉会を宣言し、夏期開催予定の講演会での再会を期して、関西東大会創立30周年記念第31回総会兼新年祝賀会はお開きとなりました。


以上

音楽ユニット「かさねいろ」

 

槙本 良二 様の迫力ある指揮の下、応援歌「ただ一つ」斉唱

 

 

 

 

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『夏の講演会』 のご報告

 

関西東大会夏の講演会が、下記の通りに開催されましたので、報告致します。

 


日 時; 2016年8月28日(日)
場 所; ホテルグランヴィア大阪 20階 「鶴寿(かくじゅ)の間」
受 付; 14:30〜
講演会 ; 15:00 〜 16:30
懇親会 ; 17:00 〜 19:00

 

【講演会】


講 師;株式会社福壽堂秀信
代表取締役社長 岡本 敏嗣 氏
演 題; 「大阪ミナミと和菓子」

 

 

 


平成28 年8 月28 日福壽堂秀信の岡本敏嗣社長より和菓子の歴史と大阪ミナミの文化についてご講演頂きました。概要以下のとおりです。

 

安原 徹(昭58 法)

 

 

1.和菓子の歴史

 


(1)上古時代


上古時代には、栗や楊梅(やまもも)など自然に生育していたものを菓子と呼んで食べていた。また、焼米、糒(ほしいい)のような保存食も果子と呼んだ。カシは大和言葉でそれに漢字を当てたもの。野生の木の実等を菓子、ヒトの手が入ったものが果子とされていた。
菓子の始祖として、田道間守命(たじまもり)の伝説が伝えられる。田道間守命は、垂仁天皇の命により、不老不死の常世(とこよ)の国を訪ね、10 年かけて非時香過菓(ときじくのかぐのこのみ)を持ち帰ったが、既に天皇は崩御していたため悲嘆して陵の前で殉死したとされる。この「ときじくのかぐのこのみ」がなまって橘(たちばな)になった。橘の実が現代のミカンである。和歌山県海南市の橘本神社は、田道間守命が伝えた橘が植えられた地であるとされ、菓子の神様として信仰を集めている。

 

(2)飛鳥〜平安時代


この時代には、唐から遣唐使によって菓子とその製法が伝えられた。これが唐菓子と呼ばれた。画期的だったのは油で揚げた菓子であったこと。神様に供える神饌としても用いられた。この時代の揚げ菓子の形を伝える餢飳(ぶと)や団喜(だんき)は、現在でも京都の亀屋清水で売られている。

 

(3)鎌倉〜室町時代


この時代に中国から点心が伝えられた。点心には、饅頭、羊羹、麵、餅などがあった。
このうち、饅頭を最初に考案したのは諸葛孔明とされる。昔、諸葛孔明が敵を討つのに、大河を渡ろうとしたが、河が氾濫して渡れない。49 名の人間を生贄にしたら収まると言われたが、人間が犠牲になるのを嘆いて、人の頭に似せたまんじゅうを作り、これを
身代わりに河へ投げ、見事に渡河したのがまんじゅうの起こりとされている。このような故事によるので始めは蛮頭と書かれたが、後に饅頭となった。
日本では鎌倉時代の1241 年、宋から帰国した聖一国師が博多の茶店に饅頭の製法を教えたといわれている。これが後にとらやの酒饅頭につながったとされる(虎屋には聖一国師が書いた「御饅頭所」の看板が残されている)。
また、1349 年、宋で修業した禅師の帰国に随従して来日した中国人の林淨因が奈良で饅頭を作って売り出した。ふくらし粉を使った饅頭で薬饅頭とよばれ、これが現在も続く塩瀬総本家のもととなった。奈良にはこの淨因を祀った林神社も建てられた。
次に、羊羹について。羊羹は、もともとは中国の料理で、読んで字のごとく羊の羹(あつもの)であった。これは羊の肉を煮たスープの類で、冷めることで自然に煮凝りの状態となる。禅僧によって日本に伝えられたが、禅宗では肉食が禁じられているため、精進料理として羊肉の代わりに小豆を用いたものが、日本における羊羹の原型になったとされる。初期の羊羹は、小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹であった。その後、16 世紀後半になって鶴屋岡本善右衛門によって煉羊羹がつくられたと言われている。煉羊羹は寒天に餡を加え型で固めたものである。一方、水羊羹は、職人が鍋にへばりついた羊羹をこそげ落とし、賄いのように食べていたものである。水分が多く含まれるので保存が難しかったが、後に、日持ちするよう缶詰にしたのが新宿の中村屋で、昭和9 年のことであった。
なお、京都で鶴屋の屋号で饅頭処を開いていた岡本善右衛門が紀州徳川家の徳川頼宣に随伴して和歌山に移り同地に店舗を開いたのが、駿河屋の元祖である。


(4)安土桃山時代〜江戸時代初期

 

 その後、ポルトガル人やスペイン人により南蛮菓子が渡来する。カステラ、金平糖、鶏卵素麺など現在でも食べられている菓子の原型となった。


(5)江戸期以降


茶道とともに発展した趣味的な観賞目的の菓子は、さらに工夫を重ね、上菓子と呼ばれるものになった。上菓子とは「献上する」という意味である。つまり、この時代に和菓子のイノベーションが起こり、暮らしの中で庶民が楽しむ餅などとは別に、色・形にこだわり茶室で用いられる上菓子が分化した。この頃、京都の菓子屋は、上菓子屋と饅頭屋と餅屋の3つに分かれていた。上菓子屋仲間には、五亀二鶴といって本家筋である5 つの亀屋と2 つの鶴屋があり、「亀」「鶴」の名がつく多くの店が五亀二鶴からのれん分けしたものと言われている。
また、この時代砂糖の使用が広まった。そもそも日本での甘みの原点は干し柿だった。
また、アマヅラ(甘葛)と呼ばれる甘味もつくられた。これは冬季に蔦の樹液から採った甘味である。枕草子には「あてなるもの。削り氷に甘葛入れて新しきかなまりに入れたる」(枕草子第39 段、岩波では第42 段)といった記述がある。つまり清少納言はともに貴重品である削り氷に甘葛をかけて現代のかき氷のようにして食べていたことがわかる。その後室町時代以降砂糖の輸入が広がり、17 世紀の初めには日本でも製糖が行われるようになった。こうして砂糖や高級品である和三盆糖が広まっていった。

 

 


2.300 年以上続いている和菓子屋のいろいろ

 

 

 

 

 

3.歳時と和菓子

 


四季折々の行事である「歳時」は昔から和菓子と深く結びついていた。


・水無月
6 月30 日に食べる「水無月」は三角の白ういろうに小豆を乗せた菓子。赤い小豆には魔除け・厄除けの意味があり、三角の形は暑気を払う氷を表しているといわれる。


・土用餅
土用とは、本来、立春、立夏、立秋、立冬の前18 日間を指し、年4 回あるものだったが、現在では夏の土用をさすことが多い。この土用に食べるあんころ餅の一種。


・月見団子
陰暦8 月15 日と9 月13 日の明月に供える団子(現在の暦だと9 月が十五夜、10 月が十三夜)。日本人は十五夜だけでなく少し欠けた十三夜を愛でる文化を持ってきた。

 


4.福壽堂の和菓子作り


(イ)漉し餡
・十勝産の小豆を使う。
・餡を冷水にさらしてアクを抜くのがポイント。
・あまり漉しすぎないことが大切。


(ロ)粒餡
・丹波産の大納言を使用。
・蜜漬けの工程で均等に蜜がつくようにするのがポイント。


(ハ)薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)
・薯蕷饅頭は菓子屋の実力のバロメータと言われる。
・製造工程は、^鬚垢蝓併外鬚糧蕕鬚爐すりおろす)、漉し、混合(砂糖を混ぜる)、
だ乎郎遒蝓癖栃瓦鮴乎呂貌れる)、ナ髑押
・当社では、栗やアケビに似せた薯蕷饅頭を作っている(『山の苞(つと)』)。


(ニ)上生菓子
上生菓子の代表はきんとん。当社では日本画の先生に20 年間色使いの指導を受けた。
例えば、赤の色も季節によって変えている。微妙な色の違いを濃淡で表すが、色使いが難しい。

 

 


5.大阪ミナミの文化と福壽堂の和菓子

 


寛永3 年(1626 年)、多くの芝居小屋が道頓堀川南岸に移され、道頓堀は芝居の町として繁栄した。1650 年代には質を維持するため興業の権利を官が与えることとなった。
その後天保の改革で角座、朝日座、弁天座、浪花座、中座の5 座に絞られた。
一方、道頓堀川をはさんだ北岸の宗右衛門町は、格式の高い花街で、「富田屋」「伊丹幸」「大和屋」といったお茶屋がその中心として繁盛した。また、宗右衛門町には歌舞伎役者も多く住んでいた。なかでも南地大和屋は明治10 年創業、平成15 年まで続いた老舗料亭だった。大和屋の功績として忘れてはならないのは、経営者の阪口祐三郎が芸妓を教育訓練する「大和屋芸妓養成所(のちに「大和屋芸妓学校」)を併設したことである。
大和屋には能舞台が設けられ、新年行事である「始業式」は毎年十日戎が終わった後の1 月14 日にこの能舞台で行われた。
宗右衛門町で創業した福壽堂はこうした花街と芝居文化のなかで育ち、多くの料亭や歌舞伎役者に贔屓にしてもらって発展することができた。先代が初めて大和屋に菓子を納めたとき「もっさりしとんな」と言われたという。なかなかこの意味がわからなかっ
たが、要は「decorative にすぎる」ということだと気が付いたという。いかに自然をデフォルメして表すかに腐心したが、「Simple is best」だということがわかった。
和菓子は日本人の生活に密着して発展したもので、これからも日本の文化を受け継いでいきたいと願っている。


以上

 

 

 

 

 

 

懇親会 報告


代表幹事 河野 裕亮(昭53 経)

 

 


懇親会会場に移動ののち、岩田幹事の司会で懇親会が開会となり、夏住副会長の開会の挨拶と乾杯の音頭で、賑やかな食事歓談が始まりました。
途中、この秋から来年の行事の紹介を行いました。
その後、今回初めて関西東大会の行事にご参加いただいた方々に、自己紹介とご挨拶をお願いしたところ、皆様熱弁をふるわれました。
そして、恒例の東京大学応援歌「ただ一つ」を全員で斉唱いたしました。
最後に日笠代表幹事が、閉会を宣言し、来年2月5 日(日)開催予定の創立30周年記念大会となる総会兼新年会での再会を期して、関西東大会講演会はお開きとなりました。


以上

 

 

 

 

 

 

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第14 回東大ワールドカフェ関西 開催報告書

 

幹事 小林 良洋(平成21 年農)

 

 

第14 回東大ワールドカフェ関西を下記の通り開催しましたので報告いたします。

 


 

 

テーマ:「科学技術立国再興のために」
キーノートスピーカー:新田 英之 氏 工学博士(東京大学)

日時:平成 28 日時:平成 28 年 6 月 4 日(土)
ワールドカフェ:13:30〜17:00、
懇親会:17:00〜19:00
場所:大阪市西区靱本町1-18-6
ベルパーク靱本町ベルアールビル2F『大阪クロススクエア』

参加者:16 名
主催:関西東大会、 協賛:東京大学卒業生室

 

 

 

 

新田氏は、平成14 年東京大学工学部電気工学科卒業後、キュリー研究所在籍時に次世代磁気ピンセットFRMTを発明、蛋白質一分子がDNAをねじる動きを世界で初めて観察した。
マイクロ工学・ナノ科学を専門とし、電気・機械工学、生物物理学、分析化学、植物学/農学など、幅広い分野へ影響を与える先駆的業績により、分野の異なる3 つの学会から学会賞等受賞。リンダウ・ノーベル賞受賞者会議参加者。文部科学省科学技術政策研究所専門調査員、多数の国際学術雑誌のエディターやレフリーを務めながら、現在はミリマン・インクで製薬・ヘルスケア業界を中心にコンサルティング業務に従事している。

 


<<講演要旨>>

 

1. 日本の研究力(論文生産力)の惨憺たる現状


・ 2,000 年過ぎから日本の論文数が停滞し、国際競争力が急激に低下した。
・最も競争力の高かった理工系の論文が大きく減少した。
・高注目度論文数や注目度も低迷し、特に分野調節被引用インパクトの順位は更に低下
(=世界と戦える分野が限られている)。
・拡大を続ける研究領域での日本の参画数が伸び悩む

(=多様な新分野の拡大に付いて行けていない)。
・計算機科学分野が特に弱く、世界の流れに取り残されている。

 


2. 何故衰退したか(研究者を取り巻く環境)


・大学教員の研究以外の業務負担増

・大学への公的研究資金が先進諸国に比べ半分程度でかつ増えていない。
・大学の研究従事者数が先進諸国に比べ低くかつ増えていない。
・国立大学においては、法人化前後から基盤的研究資金の減少と、過度な資金の集中により、研究基盤力の弱体化、論文生産性低下、更に多様な研究分野で世界と戦えなくなりつつある。

 


3. 研究者の歴史的、経済的、社会的位置付け


・ 尊敬されない
・生涯賃金が低い
・社会から理解されていない

 


4. 科学技術振興のために取られた改革

 

・ポスドク一万人計画(1,996〜2,000 年):研究の世界で競争的環境下に置かれる博士取得者を一万人創出するため、文科省が期限付き雇用資金を大学等に交付。
・上記計画にのって博士課程に進学した人材が博士号取得する頃から、国立大学法人化の交付金が10 年間で13%減額。ポスト数が減り、ポスドク一万人計画で量産された博士が職に溢れた。

・同じ頃「研究者の流動性を高め、国際競争力を高めるため(文科省)」、理工系分野を中心に教員ポストに任期制を導入。採用時公募が義務化。
・教授、助教授、講師、助手の講座制から、若手も独立して研究室を運営できる欧米型の組織へ改変するため、助教授を准教授、助手を助教と改名した。(講師の削減)
・「骨太の方針」で「国立大学法人への運営費交付金を抜本的に見直す」とし、2016 年から予算の更なる重点配分を開始。「国立大の研究崩壊へ引き金が引かれる」
・研究室の構造改革による世代間の不公平
・助教、ポスドク世代への圧力
・助教、ポスドク世代の声

 


5. 今後の見通し


・博士1万人計画とその余波で量産され、現在任期付きで研究を行う世代が現在30〜40代半ば。この世代で日本人によるアカデミアの実験・モノづくり研究はほぼ終り。
・このまま現実を受け入れるか、若い外国人研究者を呼び込むかの二択を迫られている。

 

 

 講演では、応用物理学会の特別シンポジウム「科学と産業の凋落と再興:応用物理と未来社会」における豊田長康氏(鈴鹿医療科学大学)による「日本の大学の研究競争力はなぜ弱くなったのか?」を通して、我が国の研究力の現状と研究者の取り巻く環境について解説いただき、氏の研究者としての体験や同世代の研究者の声をご紹介いただきました。そして今後はかなり厳しいといった見通しを示されました。
講演の後は「どうすれば優秀な研究者や学生を研究業界に引き込むことができるか」「若い優秀な外国人を受け入れるべきか」「外国人を受け入れない場合、どうやって世界の競争に勝っていくか」の3つのテーマについて参加者間で意見を交換しました。参加者は、氏が望む「科学技術立国再興」について考えるよい機会になりました。


キーノートスピーチとワールドカフェの後は、その場を使って軽い食事をしながら世代を超えた交流を深めました。今後も魅力的なキーノートスピーカーと興味深いテーブルテーマで卒業生のネットワークを広げていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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中堅若手会のご報告

 

中島亮平(平成12文卒)

 


平成28年7月29日午後7時、阪急うめだ本店13階屋上広場にあるビアガーデン「うめはんビアガーデンマルシェ」において、関西東大会・大阪京大クラブ合同中堅若手会が開催されました。
当日は、晴天に恵まれ、また、夕方からは気温が下がりそれほど暑さを感じることもなく、屋上の開放的な雰囲気のなかで開催することができました。


参加者は、平成7年卒業から平成27年卒業の方まで幅広く、合計15名の方にご参加いただきました。業種についても、電力会社、電機会社、証券会社に所属されている方、会社経営者、医師、臨床心理士、法曹関係者等様々な業種の方から幅広くご参加いただき、貴重な情報交換の場になったのではないかと思います。


また、参加者の中には、同ビアガーデンにあるステージ上に登壇され、ダンスを披露された方もおり、大いに盛り上げていただきました。ご参加いただいた皆様、誠にありがとうございました。


今後も、参加のしやすい、楽しく情報交換のできる会を開催していきたいと考えておりますので、ご参加の程よろしくお願いいたします。

 

 

 

 

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第30回総会兼新年祝賀会の報告

代表幹事 河野 裕亮(昭53経)

関西東大会第30回総会兼新年祝賀会が、下記の通りに開催されましたので、ご報告致します。

 

 
日 時:平成28年1月24日(日) 15:30〜19:30
会 場: ホテルグランヴィア大阪 20階 宴会場 「名庭(なにわ)の間」
出席者:62名

【第1部 会員総会】 15:30〜16:00 

安橋幹事の司会で開会となり、まず、議長の選出に入り、北 修爾 会長を総会の議長に選出しました。
予め、配布されていました資料を基に下記3件の議案について討議しました。

 第一号議案 平成27年度(平成27年1月1日〜平成27年12月31日)
の下記書類の報告と承認の件
−1 平成27年度事業報告
−2 平成27年度会計報告
−3 平成27年度決算書類 会計監査報告

 第二号議案 下記書類の報告と承認の件
−1 平成28年度事業計画案(平成28年1月1日〜平成28年12月31日)
−2 平成28年度予算案(平成28年1月1日〜平成28年12月31日)

 平成28年度 役員・幹事の人事の件

最初に、日笠代表幹事から平成27年度の事業報告があり、続いて安原幹事から会計報告、寺田会計監事より、会計監査報告がありました。
引き続き、日笠代表幹事より平成28年度の事業計画案の説明があり、続いて安原幹事から予算案についての説明がありました。
最後に日笠代表幹事より平成28年度 役員・幹事の人事の件について、退任・新任・再任についての人事案(一部役員は会長・副会長の協議により選任)の説明がありました。
議案ごとに会員に承認を求めたところ、各議案とも拍手をもって全員異議無く承認されました。
これをもって会員総会は終了いたしました。






【第2部 講演会】 16:00〜17:30

続いて、独立行政法人国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部史料研究室 主任研究員  馬場 基先生に「木簡から書写文化の伝来を考える−技術としての文字−」という演題にて講演をしていただきました。

馬場先生は1972年東京都生まれ、1995年東京大学文学部ご卒業、2000年に東京大学大学院人文社会系研究科博士課程から、奈良国立文化財研究所にご入所、興福寺中金堂の発掘調査や平城宮・京出土木簡の釈読などに従事され、現在、奈良文化財研究所の都城発掘調査部で、主任研究員として研究活動をされています。
ご専門は、日本古代史、木簡学、交通史です。ご研究の傍ら、講演会やテレビ番組等にも度々出演されており、幅広い知識に裏付けられた、分かり易い内容と軽妙な語り口が評判です。
最近ではNHK・BS「45日間奈良時代一周」や、BSジャパン「たけしの新・世界七不思議5〜長安城VS平城京」、NHK「ブラタモリ」に出演されました。

講演の主な要旨は以下の通りです。(以下当日配付資料より)


0.はじめに(何故、ひらがなとカタカナがあるのだろうか)

二つのカナと手紙の「礼紙」
文字文化とは・・・文字の「知識」だけではない
文字の使い方のルール (カナの使い分け)
文房具=道具の技術 (筆・紙の技術)
書く人間=身体の使い方・身体技法

1 日本の伝統的な文字の書き方

紙を手で持ったまま書写することが主流
絵画資料ではほとんど手で持ったまま
机は「物置」
机で書くこともある
机で書く「場面」は限定的・写経や寺子屋の場面
筆の持ち方 「一本がけ」
軸の中央に近い部分を持っている(穂先から離れる)
手首の運動が小さい?
・・・・・・東アジアでは日本にだけ特異に見える

2 文字の書き方の由来を訪ねて

木簡の文字の分析
・筆が速い
・筆圧の変化が少ない
・止め撥ね払い等が弱い
・筆画が丸みを帯びる
← 木の滲みやすさ + 手で持って書いていた可能性
天平写経・公式書類の文字
・止め撥ね払いはしっかり
・直線的な筆画
・いわゆる「楷書」
 ・・・・・奈良時代には「手で持つ」「机で書く」が既に併存
奈良時代の人々はこうした身体技術を身につけていた可能性が高い
東アジアの絵画資料
唐代・・・机上筆写が主流
筆の持ち方は「二本がけ」
晋代・・・日本の筆写方法と似るものあり
漢代・・・簡牘を手で持つ表現
筆の持ち方が異なる・・・手で握るような方法
← 筆の改良・紙の改良・・・筆と書写媒体の取り扱いに変化
時期的に筆が先行
古代朝鮮半島・・・漢代に似る
資料が残るのは高句麗の古墳壁画=古い伝統が濃い
・・・・・日本の書写運動技法は晋代に近い

3 影響と東アジアでの特徴

晋代と古代日本をつなぐ存在
百済の影響が強い・百済は中国南朝との関係が深い
文字文化の特徴も共通・・・「石碑」が少ない、など
日本での日常的な書写の「爆発」・・・七世紀末=百済遺民の渡来
道具の未変化
「巻筆」が残る・長峰筆の未発達
道具・身体技法とも古いものが永続・・・江戸時代まで残る
二つの書写技術の並立
手持ち筆写・・・日常・連綿体 =書状の礼紙や折紙などへの影響
机上筆写・・・・写経等・楷書
二つの仮名への道筋
手持ち筆写 − 連綿体 − ひらがな
机上筆写 − 角筆的世界− カタカナ ・・・神仏の世界でよく見られる

絵画資料を示しながらの先生のお話は、とても興味深く、古代ロマンに満ちた有意義な講演でした。
 






【第3部 懇親会】 17:30〜19:30

懇親会会場に移動ののち、安橋幹事の司会で第3部の懇親会が開会となり、北 修爾 会長の開会の挨拶のあと、来賓の東京大学理事 境田 正樹 様にご祝辞を賜りました。そして新しく名誉顧問にご就任いただいた鈴木英敬三重県知事の挨拶のあと辰野 克彦 副会長の乾杯の音頭で、賑やかな食事歓談が始まりました。

歓談の途中で来賓のご挨拶があり、
東京大学同窓会連合会代表幹事  岡崎 一夫 様
東京大学卒業生室副室長   島田 久弥 様
和歌山赤門会 代表幹事 安藤 元二 様
大阪京大クラブ代表 山内 潤三 様
同 並木 宏徳 様
にご登壇いただき、ご祝辞を賜りました。

続いて京都府庁ご勤務の東 健二郎様にご登壇いただき、学生によるインターンシップ企画である「東京大学体験活動プログラム」の関西での取組についてご紹介いただきました。
また、大阪京大クラブ会長 高月 清様よりいただきました、お祝いのメッセージをご披露いたしました。

そして、
旅行グルメ同好会世話人 慶田 雅洋 様
ゴルフ同好会世話人 夏住 要一郎 副会長 井垣 太介 幹事
東大ワールドカフェ担当 小林 良洋 幹事
中堅・若手会担当 中島 亮平 幹事
に 同好会の状況をご紹介いただきました。

しばしの歓談の後、司会者より、今回初めて関西東大会の総会に参加した方々に、自己紹介と
挨拶をお願いしたところ、皆様熱弁をふるわれました。

そして、恒例の東京大学応援歌「ただ一つ」を東京大学応援部OBの島田卒業生室副室長の
迫力ある指揮の下、全員で斉唱いたしました。

最後に、夏住副会長が閉会を宣言し、夏期開催予定の講演会での再会を期して、関西東大会
第30回総会兼新年祝賀会はお開きとなりました。

以上
 





 


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2015年 夏の講演会 開催報告書

関西東大会夏の講演会が、下記の通りに開催されましたので、報告致します。

日 時; 2015年8月30日(日)
場 所; ホテルグランヴィア大阪 20階
受 付; 14:30〜
講演会; 15:00 〜 16:30 「鶴寿(かくじゅ)の間」
懇親会; 17:00 〜 19:00 「名庭(なにわ)の間B」

【講演会】
講  師; 東京大学 大学院 医学系研究科
神経病理学分野 教授 岩坪 威 先生

演 題; 「認知症の早期診断と予防・治療〜アルツハイマー病研究の最新の話題から」

【岩坪 威 先生 プロフィール】
1984年、東京大学 医学部 卒業
1986年、同大医学部附属病院神経内科 入局
1989年、同学部附属脳研究施設脳病理学部門 助手
1992年、同大薬学部機能病態学寄付講座客員 助教授
1998年、同大大学院薬学系研究科臨床薬学教室 教授
2007年、同大大学院医学系研究科神経病理学分野 教授




講演会 報告
幹事 安原 徹(昭58法)

去る8月30日に東京大学大学院医学系研究科神経病理学分野教授の岩坪威先生をお迎えして、「認知症の早期診断と予防・治療〜アルツハイマー病研究の最新の話題から」とのテーマでご講演いただきました。概要は次のとおりです。

(1)本日の講演内容
    アルツハイマー病の脳の中ではどのようなことが起こっているのか。
    それを防ぐためにどのような最新治療が開発されつつあるか。
    アルツハイマー病の根本的な治療薬を実用化するためにヒトでどのようなことを確かめなければならないか。
    J−ANDI研究とは何か。それが治療薬の開発にどのように役立つのか。

(2)認知症(dementia)とは何か、
・認知機能の障害により独立した生活を営めなくなった状態をいう。
・ある日突然起こるのではなく、どこから認知症と線を引くかは問題。
・大脳皮質などの神経細胞が死滅 ⇒ 脳細胞の回路が壊れ、機能障害を起こすことが症状が出る原因(うつ病、統合失調症は脳の細胞が壊れるわけではない)。
・記憶障害その他の大脳機能が進行性に低下。
・高齢になるほど多く発症。加齢が最大の危険因子。
・国内だけでも認知症患者は462万人。そのうち3分の2がアルツハイマー病。

(3)認知症の症状とアルツハイマー病
    中核症状
脳機能の低下を直接示す。
・記憶障害
・見当識障害(ここがどこで、今がいつなのかがわからなくなる)
・判断力の低下
    行動・心理症状
暴力・暴言・徘徊・拒絶・不潔行為・抑うつ・不安・幻覚など。
中核症状以上に生活ケアの大きな障害となる。
アルツハイマー病は老年者に認知症をもたらす代表的な疾患
(2番目に多いのは脳血管性認知症、3番目はレビー小体型認知症)。

(4)アルツハイマー病の原因
第一の鍵
脳は神経細胞がつながりあった巨大なコンピュータのような構造。アルツハイマー病の脳のシナプスにおける神経伝達物質に着目する考え方。
1990年代より生化学が進歩し、アルツハイマー病の脳ではアセチルコリンという神経伝達物質が減少していることがわかったが、原因解明とはならなかった。ただし、治療の分野では、正常時にもアセチルコリンを分解しているコリンエステラーゼの働きを抑え込むことによって脳内のアセチルコリンを増やすという治療薬が開発された。ドネペジル、リバスチグミン、ガランタミンという3種のコリンエステラーゼ阻害剤が承認されている。
また、グルタミン酸は脳内のシグナル伝達に関わっているが、アルツハイマー病の脳ではグルタミン酸の異常な放出が続いて神経伝達物質を傷めるので、グルタミン酸の働きを調整するという試みがなされた。これがグルタミン酸受容体阻害薬で メマンチンという名称で承認されている。
もっとも、これらの薬は病気の進行を遅らせるもので、根本的な治療薬ではない。

第二の鍵
アルツハイマー病の脳のなかで何が起こっているかに着目。つまり、アルツハイマー病の脳の海馬の顕微鏡写真によると、神経細胞の脱落、神経原線維の変化、老人班が見られる。神経原線維の変化はPHFという線維からなり、その主成分がタウ蛋白であることがわかっている。一方、老人班はβアミロイドとよばれる蛋白から成っている。現在では、タウ蛋白は細胞死の原因となり、βアミロイドは病因に関連すると考えられている。

第三の鍵
稀な家族性(遺伝性)アルツハイマー病の病因遺伝子の発見。これらの変異がアミロイド(Aβ)の蓄積を亢進する。

(5)根本的な治療薬への戦略
どうやって脳内にアミロイドβペプチド(Aβ)が蓄積しないようにするか。このAβができるプロセスでセクレターゼという酵素が重要な役割を担っていることがわかってきた。APP(Aβ前駆体蛋白質、Aβのもととなる蛋白質)を切断してAβが産生されるが、この働きを抑制するγセクレターゼ阻害薬、βセクレターゼ阻害薬が作られた。γセクレターゼ阻害薬については治験の結果、改善が確認できず2010年に開発中止。βセクレターゼ阻害薬については現在開発が進んでおり、実用化が期待される。
一方、免疫療法(ワクチン療法、抗体療法)も研究が進められている。即ち、抗体がアミロイドにひっついて目印をつけ、掃除屋のような細胞に食べさせる療法や、抗体がAβに付いてアミロイドを作らせなくする療法など。前者については2,000名の治験をしたが臨床効果がなく2012年に中止。後者についても治験の結果臨床効果なしとされたが、軽症のアルツハイマー病に限ると効果があった(イーライリリー社のソラネズマブ)。





(6)早期診断
アルツハイマー病の臨床症状は80歳前後で急増し、それまでは軽度認知障害にとどまっている。しかし、神経細胞の病理に着目すると60歳台でタウ蛋白による神経原線維が増加、さらにアミロイド病理については50歳台でアミロイド蓄積が始まっている。発症の10〜15年以上前からアミロイドがたまり始めるので早期診断の可能性が研究されている。つまり、症状が全然ないが、アルツハイマーの病理変化が始まったプレ・クリニカル・アルツハイマー病段階の治験が求められる。
超早期診断の実用化にはバイオマーカー(判定基準)の実現が必要。
    画像診断はバイオマーカーになる。
・MRI
・ブドウ糖PET
・アミロイドPET(アミロイドに結合する化合物を放射能で認識し、PETでアミロイドの蓄積を認識する)
    脳脊髄液中の物質の測定はバイオマーカーになる。

(7)J−ADNIについて
2007年〜13年にかけて、アルツハイマー病の根本治療薬の効き目の判定基準(バイオマーカー)を決める全国研究J−ADNIが実施された。これは、健常高齢者、軽度認知障害、軽症AD(アルツハイマー病)の方を定期的に検診し、評価基準を作ろうというもの。
・アミロイドPETの進歩が貢献。
・健常な人の4分の1はアミロイド陽性。
・アミロイド陽性MCI(軽度認知症患者)の認知症への進行率は45%。
・症状発症前のプレクリニカル期ADに対する抗Aβ薬の予防治験が期待される。


以上
 
懇親会 報告
代表幹事 河野 裕亮(昭53経)


懇親会会場に移動ののち、安橋幹事の司会で懇親会が開会となり、夏住副会長の開会の
挨拶のあと、辰野 克彦 副会長の乾杯の音頭で、賑やかな食事歓談が始まりました。

歓談の途中でご来賓の
東海銀杏会代表幹事 浅野 晴彦 様
大阪京大クラブ代表 安達 篤夫 様・同 並木 宏徳 様
の皆様にご登壇いただき、ご祝辞を賜りました。
そして、

東大ワールドカフェ担当 小林 良洋   幹事
ゴルフ同好会世話人 夏住 要一郎 副会長
中堅・若手会担当 中島 亮平  幹事
旅行グルメ同好会世話人 慶田 雅洋  様

に、秋に開催予定の行事をご紹介いただきました。

しばしの歓談の後、菊池顧問にカンツオーネ、白井顧問に詩吟をご披露いただき、 その後、今回初めて関西東大会の行事にご参加いただいた方々に、自己紹介とご挨拶をお願いしたところ、皆様熱弁をふるわれました。

そして、恒例の東京大学応援歌「ただ一つ」を全員で斉唱いたしました。

最後に日笠代表幹事が、閉会を宣言し、来年1月24日(日)開催予定の総会兼新年会での再会を期して、関西東大会講演会はお開きとなりました。
以上

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