第52回琵琶湖畔テニスツアーの報告

平成27年4月11日(土)、12日(日)に湖畔の「エクシブ琵琶湖」で開催、2日間とも晴天に恵まれ、快適なテニスツアーを楽しむことができました。


プレーを開始するまえに、先日突然お亡くなりになられた田中寿一さまに黙祷を捧げました。田中さまにはテニス同好会の発足当時から、会の代表としてご活躍いただきましたことを心から感謝申し上げます。

今回の参加者は11名(そのうち1名は日帰り)で、大阪から白井良明さまが初参加されました。試合の結果、優勝は白井良明さま、2位は久留島正さま、3位は小川弘之さま。

夕食時に皆様のご意見で、田中さまの後任として、小塙直さまに会の代表をやって頂くことが決まりました。なお、「通信」の原稿依頼、関西東大会事務局との連絡やテニス同好会の事務局的な業務は飯田陽一さまにお願いすることになりました。その他、テニスツアーの回数を来年から年1回とすること、幹事の仕事を他の参加者が出来るだけ分担することが話し合われました。

夕食後の2次会では、小川さまに「歴史講話」として、「明智光秀は信長と合意のうえ徳川家康を殺すはずであったが、手違いが生じた」との本能寺の変に関する伊東潤著「峠越え」(講談社)の説を紹介していただきました。

翌日は紅白対抗戦を行って解散。午後は三々五々、彦根城その他で満開の桜を楽しむなどして帰宅の途につきました。


 
幹事 小川弘之、 飯田陽一

関西東大会のホームページへ



旅行グルメ同好会 北海道-道東-の旅 報告

(旅行記 )昭34薬 川村邦夫
(スケッチ)昭32工 渋谷寧伸

旅行グルメ同好会:関西東大会のホームページには「家族同伴の小旅行、グルメを実施」と紹介されているが、この会の特徴は、旅行の企画と内容にある。駒場の旅行研究会以来60余年の国内旅行の企画の実績を持ち、国内交通と各地の名所旧跡、穴場の隅々まで熟知して幹事、慶田幹事の力量によるところが大きい。その博識は、旅行会社やベテランガイドと言えども遠く及ばない所である。実施に当たっては、細部は旅行社にまかせてはいるが、予定はそのままにしておき、現地で慶田幹事の考えに従って、省略、変更したり、更に良い訪問先に変更されたりしている。加えて、参加者は高齢者が多いが、皆旅慣れた元気者ぞろいである。参加者の年齢も考慮され、訪問先の数を稼ぐのではなく、ゆっくり・じっくり楽しむ旅である。また、かなり詳細な解説が慶田幹事によって作成され事前に配布されていることも、この旅行をより楽しいものにしていた。

旅の概要:今回の参加者は同伴者を含めて12名。10月19日朝、大阪伊丹から東京羽田を経て、14時35分、女満別着、5日間の北海道の旅をスタートした。北海道は道路が良く整備されているため小型バスがなく、12名は大型バスに乗り全行程をゆったりと移動するという旅であった。4泊のうち、屈斜路湖プリンスホテルに2連泊、十勝川温泉の観月苑に2連泊し、荷物の持ち運びが少ないのも有難かった。

今回の旅は、「北海道の道東」の旅であり、女満別空港から、美幌峠―屈斜路湖プリンスホテル泊、(第2日目)和琴半島―砂湯温泉―大鵬相撲祈念館―摩周湖第一、第三展望台―硫黄山―屈斜路湖プリンスホテル泊、(第3日目)双岳台―双湖台―ペンケ・パンケ湖―阿寒湖遊覧船―神田日勝記念館―十勝川温泉観月苑泊(第4日目)元JR幸福駅―中札内美術村―忠類ナウマン象記念館―観月苑泊、(第5日目)ビート(甜菜糖)資料館―とかち帯広空港を16時10分発で帰路につくと言う行程であった。

既に、10月中旬を過ぎており、全行程で山野は紅葉が盛り或いはやや盛りを過ぎた状態にあり、全山が赤、黄色に彩られており、天候にも恵まれ、天然の美を満喫しながらのバス旅行であった。一日だけどんよりとした曇り空であったが、雨にも雪にも降られることはなかった。帰宅後一週間後には北海道東北部では雪のニュースが入り、天候の面でも、幹事の日程の組み方は最も良い時期の選定であった。

第1日目:女満別空港から美幌峠を通って屈斜路湖へ向かった。
美幌峠は菊田一夫のドラマ「君の名は」の舞台ともなり、真知子のストールの巻き方から、「真知子巻き」というファッションを生み一世を風靡したものであった。もう50数年も前の事である。峠から屈斜路湖畔へ下り、屈斜路プリンスホテル泊。
 
  <屈斜路湖砂湯にて>
 



第2日目:和琴半島、砂湯を経て大鵬相撲記念館へ。弟子屈町にある大鵬相撲記念館を訪ねた。1960年代の名横綱の出身地弟子屈町にあり、32回の優勝を含む大鵬の輝かしい相撲人生を飾る品々と当時の様子を克明に伝える展示がある立派な記念館であった。当時は、高度成長のよき時代であり、「巨人、大鵬、卵焼」などと言われたものであった。弟子屈町で昼食後、摩周湖へ。 摩周湖は、「霧の摩周湖」と言われ、霧に覆われて湖面を見ることが出来ないことが多いと言われているが、この日は霧が全くなく、二カ所の展望台から湖面全体を眺めることができた。但し、曇天であったため、湖面も曇天を反映した灰色の湖面であった。次いで硫黄蒸気の噴出している硫黄山を訪れた後、屈斜路プリンスホテルに連泊。
 
  <スケッチ 硫黄山>



第3日目:弟子屈と阿寒の間は人っこ1人いない無人地帯である。途中、雄阿寒岳や雌阿寒岳の双岳台やペンケ沼やパンケ沼が紅葉の間から見える双潮台などの絶景がある。無人の山間を走って到達する阿寒湖畔はみやげ物屋が並ぶ賑やかなところである。阿寒湖は特別天然記念物のマリモの植生で知られている。一時、生活廃水による汚染のため減少し、絶滅が心配されていたが、関係者の努力により最近は増加の傾向にあるという。阿寒湖を船で遊覧し、阿寒湖の中央にあるマリモ展示観察センターでその植性の解説を見学した。マリモは緑藻の一種で、阿寒湖のものは糸状の藻が集まって球状体となる珍しい藻である。一定の大きさを超えると、中まで光が通らなくなり、炭酸同化ができなくなり中央部が空洞になって、解体するという。お土産屋でビン入りのマリモを売っているが、これはシベリアからの輸入品であるとか、糸状の藻を人工的に丸めたものであるとか言われていた。

いずれにしても、特別天然記念物は採取禁止である。午後は阿寒湖からバスで足寄町を経て、帯広市郊外まで長距離移動し、夕刻鹿追町にある神田日勝記念美術館を訪ねた。

神田日勝は北海道では有名な画家であるが、不明にして私はその名を知らなかった。昭和20年8月に東京から疎闊し潜水艦の出没する津軽海峡を無事乗り切って十勝郡の鹿追町に辿り着いたのは8月14日で終戦の一日前であったという。東京には二度と戻らずに北海道で農業を続けながら絵の制作に励んだという。32歳で早逝されたが、その偉業を憩えるために北海道では記念館を造って保存している。記念館には「神田日勝の造形思考〜キュウビズム的多視点〜」と標題が付けられているが、同じ1960年代に、「人間A〜どう生きるか、どう描くか」や「画室B」というキュービズムの代表的な絵もある半面、「湿原の群馬」の様な写実的な絵もある。印象的なのは「馬(絶筆)」である。馬を途中まで、顔、頭、胴の半分だけ描いたところで、1970年に絶筆となってしまった絵である。中札内の美術村といい、神田日勝記念館といい、北海道には広い大地に広いスペースを取った建物、周辺に庭のある良い美術館が多い。十勝川河畔にある十勝川温泉観月苑泊。
 
  <スケッチ 十勝中央大橋>


第4日目:幸福駅。「恋人の聖地」と言われる幸福駅に立ち寄った。元国鉄広尾線の駅で今は廃駅となっているが、駅舎と表示板だけが残っている。我々にとっては、さしずめ「健康長寿」が幸福であろう。幸福駅をあとにして、中札内美術村へ。白樺やブナの広い林の中に「相原求一郎」、「北の大地」、「小泉淳一郎」、「夢想館」という4個の美術館と販売店、レストランが点在している。静かな雰囲気の林の中を散歩しながら絵画、彫刻を鑑賞することができる。午後はナウマン象記念館。帯広の幕別町忠類にある忠類ナウマン象記念館を見学した。ナウマン象は約20万年から2〜3万年前まで日本列島や東アジア大陸に生息していたとされている。ここ忠類のナウマン象の生息年代は約12万年前と推定されている。1969年、農免道路工事中に偶然発見されたもので、完全な形に復元されたナウマン象が展示されている。日本では他に、瀬戸内海や野尻湖でも発見されているという。長いキバを持つ見事な復元骨格か古代への夢を誘う。観月苑に連泊。
  
<幸福駅にて>



第5日目: 旅の終わり、「とかち帯広空港」に行く途中、日本甜菜製糖(株)の「ビート資料館」を訪ねた。日本の甜菜製糖の歴史と当時使われた器械などを展示している。甜菜糖工業生産の歴史は明治4年に内務省の肝いりで始まったこと、その局長松方正義氏(後

の総理大臣)は日本甜菜製糖(株)の社長正熊の父、元駐日大使ライシャワー夫人松川ハルの祖父にあたるという。
最後に、この旅のグループの名前は、「旅行グルメ同好会」であるが、グルメの話が全く無くなってしまった。どのホテル、旅館も精選された美味しい料理を出すホテル、旅館であり、全ての料理がおいしく、4日間とも満足、満腹となりいずれも、優劣付けがたい美味であった。(終)
 

東京の旅(駒場、本郷と三多摩) 報告

慶田 雅洋(昭30農)


・ 日 程:2014(平成26)年4月16日(水)〜19日(土)
・ コース:
4月16日(水) 豪徳寺、古賀正男記念館、東京ジャーミー、駒場リサーチセンター
4月17日(木) 新宿御苑、駒場公園内前田伯爵邸、竜轟山等々力不動尊・等々力渓谷
九品仏・浄真寺
4月18日(金) 東大農学部資料館・図書館・東大球場、弥生美術館・竹久夢二美術館、
旧岩崎邸庭園、東大赤門・伊藤国際学術研究センター
4月19日(土) 芦花公園・蘆花恒春園、深大寺・水神苑、青梅・吉川英治記念館
・ 参加者 23名

豪徳寺は今でこそ立派な伽藍のお寺になりましたが、昔は貧乏寺で雲水修行をしてやっと暮らしを立てていたそうです。時の和尚はことさら猫を可愛がり、自分の食べ物までも割いて育てていたそうです。ある夏の昼下がり、突然鷹狩りの帰りと思しき武士5、6騎が入ってきて、和尚に「門前を通ったところ、猫が1匹うずくまっていて、手を上げてしきりに招くので休ませて戴きたい」とのことでした。和尚は三世因果の説法をしたところ、一天俄かにかき曇り雷鳴轟き夕立となったそうです。武士は大変喜び、「拙者は江州彦根城主の井伊直孝です。」と名乗り、これを機に豪徳寺は井伊家の菩提寺になったのです(因みに直孝侯は彦根藩2代目の藩主で、大老の直弼侯は13代です)。

全く同じ形の白い招き猫は商売繁盛のシンボルとして関西で販売されていますが、同じ招き猫でも江戸では意味が異なるのです。お寺のボランティアの方があまりにも熱心で2時間以上かかったので、代々木上原の古賀正男記念館は駆け足の見学となりました。
東京ジャーミー(イスラム教寺院)を訪れたのは5時半を回っていましたが、係の方のご好意でゆったりと見学することが出来ました。荘厳なステンドグラスには目を見張りました。

工学部航空学科は旧制一高の近くに航空研を持っていました。戦後アメリカの憎悪の対象となり、航空学科は解体されましたが、航空研は現在は先端技術センターとして生まれ変わり活動しています。先端研ではiPS細胞の研究をやっているかどうか分かりませんが、先端技術には色々なものがあると思い、見学を前から申し入れていたのですが事務局の答えはNO。前例がないとの一点張りでした。「北海道富良野の演習林や奄美大島の国際ハブセンターは一般公開していないにも拘らず見学を許してくれた」と粘ったのですが駄目でした。但し、リサーチキャンパスのレストランCapo Pellicanoは以前から顔見知りのシェフなので、当店で会食のみ実施いたしました。

旧航空研の建物は規模は小さいですが、旧制一高の建物とよく似ています。中央に時計台があり、旧特高館に似た事務棟があります。以前は樹木に取り囲まれていたのですが、ほとんど伐採して8階建ての研究棟に生まれ変わっていました。

宿泊は3泊とも京王電鉄渋谷駅構内にある渋谷エクセルホテル東急を利用しました。岡本太郎の「明日の神話」と題する大壁画があり、見飽きるほど鑑賞することができました。



4/19(土)新宿区内藤町新宿御苑にて、八重桜が満開であった。

駒場になぜ前田伯爵邸があるのでしょうか。本郷の赤門が前田家の御門であることはご存知の通りですが、明治政府は本郷を東大が接収した見返りとして、換地を提供したのです。前田利為侯がここに邸宅を構えたのは昭和の初めでした。邸宅は和館と洋館からなり、洋館は住居として、和館は来客のおもてなし等に使用していました。ところが、侯は第2次大戦中に将官として任地のボルネオで戦病死され、お家は断絶。終戦後の内閣総理大臣東久邇宮稔彦殿下はマッカーサー元帥の宿舎として洋館を提供しましたが、マ元帥は住むのを嫌がり、虎の門のアメリカ大使館から日比谷のGHQへ通いました。後任のリッジウエイ中将は洋館を大変気に入り、住居として使用しました。連合軍総司令官はリ中将で終わりですが、後任の在日米軍司令官クラーク大将も洋館を使用しました。その後昭和42年に東京都が公園として開設し、現在は目黒区に管理が移管されています。


4/17(木) 駒場東大前 東大教養学部正門にて


4/19(土)調布市深大寺境内水神苑にて、好天に恵まれ大勢の観光客で賑わっていた。

青梅にある吉川英治記念館の草思堂で英治の生涯を振り返るDVDを見ました。英治が青梅に疎開したのはサイパン陥落後の昭和19年秋で、ここには昭和28年までの足掛け10年しかいなかったのですが、今でも地元の人々に愛されていることは幸せなことです。70歳で亡くなるまで30回も引っ越したのには驚きました。若いころは神戸の造船所でカンカン(叩き船大工)をやったこともあることを知り、関西東大会の大先輩である日向方斎先生も同じことを経験したと伺っていたのを思い出しました。

プラムウイルスの蔓延を阻止するため、青梅梅郷の梅林は本年3月の観梅を最後に全て伐採したそうです。プラムウイルスの特効薬はなく、桃にも感染するので、伐採以外の手はないそうです。土中のウイルスを殺滅するためには5〜6年必要で、それから植樹しても育つのに数年かかるから、10年は梅見出来ないことになります。来年から梅のない青梅に観光に来る人があるのかと心配になりました。

 

関西東大会のホームページへ


 

第51回淡路島テニスツアーの報告

10月19日(日)−20日(月)に淡路島「ウェスティンホテル淡路」で、第51回のテニスツアーを行いました。

第1日目は好天に恵まれ、13名の皆様が元気に参加されました。2日目は残念ながら途中から雨になり、それぞれホテルの「奇跡の星の植物館」などを楽しみました。

テニスは、ホテルのテニスコートが台風と大雨で、コンディション不良のため、ホテルからバスを出してもらい、島内の「ウエルネスパーク五色」(第1日目)と「東浦サンパーク」(第2日目)で実施しました。「ウエルネスパーク五色」からの帰路のバスの中で見た海のかなたに沈む夕日の美しさは印象的でした。

初参加の福井博健様(昭和60年工学部卒)が加わり、4ゲーム先取、ダブルス戦を5試合行いました。各試合とも熱戦でしたが、今回は吉田様が優勝という結果になりました。
ホテルで表彰式、懇親会を行い、そのあと恒例の講話は、小川様が「高山右近と隠れキリシタン」の歴史秘話をされました。

2日間のテニスツアーを終え、来年春のテニスツアーでの再会を約束し、散会しました。

幹事:小塙、久留島、吉田、福島


第1日目の試合前の集合写真


ウエルネスパーク五色からの帰路での夕日

関西東大会のホームページへ



テニス同好会50回記念・春合宿の報告

4月12日(土)−13日(日)に滋賀県米原市「グリーンパーク山東」で行いました。好天に恵まれ、雪も消えた伊吹山をバックに、計15名が元気に集いました。




  (伊吹山を背景に試合前の集合写真)

初参加の安橋正子様(平7教養卒)が加わり、各自4ゲーム先取のダブルス戦を4試合行い、心地良い汗を流しました。結果、東京から参加の在田(S38工)が優勝、2位木山(S38工)、3位石本(S32工)さんでした。

鴨肉など郷土料理の後、別室で表彰式、懇親会を行いました。恒例の歴史夜話は「八重の桜」の影の主人公「山本覚馬」(八重の実兄)のエピソードを遠藤(S38工)が披露しました。

幹事:遠藤哲彦(S38工卒)、細川彰(S41工、43修)

関西東大会のホームページへ



関西東大会 北陸行旅記

高田 忍(昭40文)
 
10月7日より4泊5日の「富山県西部、白川郷、能登、金沢の旅」に参加した。この地を旅するのは、ゼミの社会調査で富山のベアリング工場や高岡の鋳物工場を訪れて以来で実に49年ぶりである。また、関西東大会の旅行は、6月の北海道に続いて二回目である。参加者の柴崎育久、富子ご夫妻が旅先で俳句を詠まれた句を選んでいただき、この旅行記に入れていただいた。甲武信とは、育久氏の俳号である。
 
10月7日(月)
14名の参加者は、ほぼ定刻に高岡駅に集まった。バスの駐車場の傍らに前田利長という戦国武将の像がある。疑問が二つわいた。一つは利長と利家の関係。もう一つは、加賀藩の前田家と越前高岡との関係。ガイドの説明では、利長は利家とお松の方との間に生まれた嫡男で加賀藩二代目の藩主であること、前田家は加賀のみならず能登、越中を支配していたという。

バスは前田家の墓所の横で停車した。墓所の面積は3万坪とも5万坪ともいうが、その中はうかがい知ることができない。
最初に訪れたのは利長公の菩提寺国宝高岡山瑞龍寺である。重要文化財に指定されている総門は、東大赤門と同じ形だそうだ。上の写真が総門で、下はその後上京した際に撮った赤門である。類似していることがわかる。


 

 
その先に控える山門は国宝で屋根は二層になっている。上下の屋根の大きさを同じにして、上に積もった雪が下に落ちないような工夫がされている。これだけの大きな寺が、禅堂などもあるのに家族数人で維持しているとのことであった。
昼食後、奈良、鎌倉に次いで大きいという高岡大仏を見学した。大仏に口髭、顎髭があるのが印象的であった。
金谷町に向かう。高岡は鋳物の街でもある。郷里のお寺が戦時中軍に接収された鐘を、戦後再興するにあたり、高岡の鋳物会社に依頼したことを思い出した。電線は地中化され千本格子の家が軒を並べる。街並みはきれいに保存されている。
その後、大伴家持が越中国守となってこの地に赴任したことから設けられた万葉歴史館を見学した。
初日の宿は雨晴温泉の旅館である。小高い丘の上にあり富山湾を見渡すことができ、その先には立山連峰が見える。大浴場は湯の表面と富山湾の海面とが一体になり、まるで海の中の温泉につかっている気分になった。
 
雨晴温泉
 海越しに剣・立山天高し     甲武信
 行く秋や稜線雲をつなぎ合ひ   富 子
 
10月8日(火)
雨晴温泉から井波までの途中、気になったことがある。墓石の大きいことであった。人の背丈の一倍半から二倍はあるように見えた。昨日の利長の巨大な墓と通じるところがあるのだろうか。
井波は木彫りの里である。井波彫刻の歴史は、火災で焼失した瑞泉寺の再建の際、京都から彫刻師が派遣され地元の大工がその技を習得したことが始まりである。八日町通りという門前町を、ガイドの説明を聞きながら歩く。彫刻工房を覗くと、若い職人の姿も見られ、伝統工芸が継承されている。八日町通りにある家の表札、店の看板だけでなく、地域のコミュニティバスの停留所まで木彫りで作られていた。
瑞泉寺は、浄土真宗大谷派で第5世綽如上人の開創、後小松天皇の勅願所とされている。北陸に浄土真宗を広めた蓮如上人は綽如上人の2代後ということであった。
勅使門の彫刻「獅子の子落し」は、親の獅子が子を蹴落とす様子と、そこから這い上がろうとする子を見守る姿が彫られている。法堂の左には太子堂があった。本尊は後小松天皇が綽如上人に下賜された聖徳太子二歳の尊像である。太子堂は大雪に備えて、屋根がしなり耐えられるような設計がされている。この地方では、端午の節句に太子像を贈る風習があるという。
 
午後、閑乗寺公園から砺波平野に広がる散居村の全貌を見た。田は刈り取った稲から出た芽が伸びて、田植えの後のように一面は緑であるが、田植えの後の水をためた風景はもっと素晴らしいのではないかと想像した。散居村はかつて秀吉の太閤検地の役人の目を欺くために、家々を密集させるのではなく、離れて建てたことからその名前の由来があるそうだ。敷地の一番外側に生垣や塀があり、その後ろに背の高い杉の木等が植えられている。高い木に囲まれた内側に、母屋や納屋、白壁の土蔵が建てられている。暴れ川ともいわれる庄川が肥沃な砺波平野を生み出した。展望台から庄川が蛇行している姿がよくわかった。
平家の落ち武者が傷をいやしたことが始まりという大牧温泉はダム湖沿いにある。船でさかのぼると、川から水蒸気が立ち上っている。温泉から流れ出て温められた川の水と空気との温度差からできる現象かなと思った。翌日朝食の時、水墨画を趣味としている竹澤英代さんが、これは川霧だと説明してくれた。風のないときに起こるそうだ。
旅館に入ると廊下には、多くのスターの写真とサイン入りの色紙が飾られていた。テレビのサスペンスの舞台になったことを思い出した。露天風呂は本館の外、階段を5〜60段上がったところにある。湯には木の葉が浮かんでいたりして正に秘境の温泉という感じであった。
夕食には旅館の主人の差し入れで、焼いた岩魚に酒を注いだ「骨酒」がふるまわれた。
 
大牧温泉
源泉はダム湖の底ぞ木の実降る     甲武信
 
10月9日(水)
台風24号が接近していたが、雲の合間に少しばかり青空が見え、川は小波が立っている。対岸の木の葉も揺れている。俳句を詠まれる柴崎富子さんから「葉裏を見せる」と表現すると教わった。風が強くなる前兆で秋や冬の初めに見えるという。朝食の間、落雷によるものか何度も停電が起きた。風が強くなり船の出発時間が早まると宿の人が各部屋に伝えに回った。
 
バスは156号線を庄川の右に行ったり左に行ったりしながら、飛騨高地に向けて走った。五箇山の菅沼集落が見えた。高岡のガイドによると、五箇山も加賀藩の領地で鉄砲の煙硝が作られていた。
飛騨の白川郷に着いた頃、あいにく雨がぱらついてきた。集落の全貌が見える高台へ行き、記念写真を撮ることになった。昼食は高台を降り集落の入り口にある「囲炉裏」という店だ。山菜料理が出され、久しぶりに野菜を多く食べることができた。その中に「みずな」という山菜が出されたが、京野菜の水菜とは異なる。飛騨牛の朴葉(ほおば)焼きは美味であった。
村の中を散策したが、ほとんどの合掌つくりの家が土産物屋になっているのには失望した。生活が懸かっているとはいえ、世界遺産なのだから、昔の姿を残してもいいのではないか。
 
白川郷
日は秋の杉の梢(うれ)研ぐ白川郷   富子



  白川郷を高台より見下ろす
 
白川郷を後にして、砺波平野の南西部にある城端(じょうはな)の曳山会館を訪ねた。毎年五月四、五日に祭礼が行われ曳山が町内を練り歩く。会館には傘鉾、曳山、庵屋台が展示されていた。庵屋台の一つに、欄間に近江八景や日本三景が彫られているという。よく見ると浮見堂に雁が飛んでいる光景を彫り込んだ近江八景の「堅田の落雁」だとわかった。また城端は絹の産地でもあった。
そのあと、福光にある棟方志功記念館を見学した。青森県出身の板画家 棟方志功が戦時中東京からこの町に疎開した。当時住んでいた家が保存されている。便所の壁から天井に至るまで絵が描かれている。
その夜は、庄川沿いにある川金という宿に泊まった。露天風呂では、能登の先端、珠洲(すず)から来たという人が話しかけてきた。昭和四年生まれで兵役志願していたが、終戦を迎え戦争に行かなくて済んだと語った。見知らぬ人と気軽にこのような話ができるのもこの土地ならではのことだ。
 
川金
女湯と夕霧分かち露天の湯   甲武信
 
10月10日(木)
砺波平野を後にして、高速道路「のと里山海道」を走った。台風も通過した後で、日本海は白波が立つ程度で穏やかであった。途中「千里浜(ちりはま)なぎさドライブウェイ」を走った。砂が粘土質のためか、タイヤがめり込むことはなく走り抜けていった。
 
11時前に輪島に着き朝市を見て回る。車道とは区分された歩道上に屋台の店が組み立てられている。屋台では魚の干物のほかに塩が売られていた。塩は瀬戸内海の産物と思っていたが、日本海でも作られるのだ。昼食には、ブリ大根のほかに地元の名物「いしる料理」が出された。帆立貝の殻にエビ、ネギ、なすが入っていた。やや塩味が効きすぎていた。
午後「キリコ会館」を見学した。キリコとは、切子灯篭のことで、奥能登の各地で行われる夏祭りに使われる巨大な灯篭である。大きなものは高さ15メートル、重さ25トンもあり、担ぎ手は150人必要だということだ。少子高齢化で、金沢大学の学生が担ぎ手の役を果たしているということだ。
海岸線沿いに千枚田に向かう。ここでも塩を売っていた。道路わきの高台から、千枚田を見下ろした。刈り取った後の田と畦道の境目がハッキリせず、風景は今一つである。狭くて急な土地に沢山の田を切り開いたことに感心する。奥能登地方は貧しさから狭い土地を有効活用する必要に迫られたと思いがちだが、実はそうでないらしい。
 
千枚田からさらに10キロほど北東に進むと上時国家と下時国家がある。パンフレットには、江戸時代の大庄屋と紹介されている。歴史学者網野善彦氏の「日本の歴史を読み直す」(ちくま学芸文庫)によると、両家は回船交易で財を成した家柄だ。この地でとれる塩と炭を船で松前まで運び昆布を買い、敦賀、琵琶湖を経て京、大阪に売っていたそうだ。当時この地方はかなり栄えていたという。
 
千枚田
田仕舞の人影もなし千枚田   富子
 
最後の訪問先は禅宗の総持寺である。説明した人によると、福井の永平寺を本社で、総持寺は営業本部という関係にあり、その下の寺が競い合って信者を増やしたので、曹洞宗の信者が多いという。能登地方の地震で山門が沈み、両脇の屋根にかぶさっていたが崩れてはいない。寺院建築の技に感心した。
金沢のホテルにチェックインしたあと、夕食の場所は寿し龍という寿司屋である。偶然にも東大通り(ひがしおおとおり)にある。ここで出された白子は珍味であった。
 
翌日、49年前に立ち寄った兼六園を再び訪ね、昆布と同じルートで帰阪した。今まで、雪深い北陸にある加賀藩がなぜ百万石といわれるほど財政が豊かだったのかについて、よくわからなかった。砺波平野の米、五箇山の煙硝、城端の絹、奥能登の塩、炭、松前の昆布などがあったからに違いない。百万石の背景にも触れることができ、有意義な旅であった。
 
 

第49回滋賀甲賀土山テニスツアーの報告




平成25年11月9・10日に滋賀県土山の「ダイアモンド滋賀」で開催しました。ゴルフコースも併設した広々とした高原リゾート施設です。

参加者が9名とやや寂しかったのですが、東京からも遠路遥々2名の方のご参加を頂きました。

9日は天候に恵まれ熱戦が展開され、木山 元が初優勝。夕食後の懇親会では在田正義が「高齢者と運動」、原弘道さん(S33法)が「地震と建築」と題して話題を提供され、質問・意見等で花が咲き、楽しい一時を過ごしました。

10日は雨天のため室内コートになりました。ハードコートで球足が速く、皆面喰っていましたが、貴重な体験でした。
次回は節目の50回ですので、賑やかな大会を期待します。
 
幹事 : 在田 正義(S38工)、木山 元(S38工)

稚内・礼文島・利尻島旅行記

阿部 武司(昭51経)

関西東大会の「旅行グルメ同好会」の皆さんと、日本最北の地を6月3日から7日まで訪れた。
私は昨年還暦を迎え、そろそろ人生を楽しまないと損だと思い始めたこともあって、「関西東大会通信」でたまたま目にしたこの企画に、妻と2人で参加したい旨をそこに記されていた慶田雅洋さん(昭30農)にファックスで申し込んだ。慶田さんからは、まもなくご丁重なファックスやお手紙を次々といただいた。すぐに慶田さんが宿泊や移動も含めて今回の企画をすべて立てて下さったことを理解した。
現地に行ってみて初めてわかることも多かったが、慶田さんのおかげで出発前からかなりの予備知識を持つことができた。年が明けてからの関西東大会の新年会では慶田さんからお声をかけていただき、ご挨拶できた。その後、この同好会が平成11年から14年間も慶田さんを中心に毎年春と秋の2回3〜4泊の旅を続けてきたことを知った。特に北海道訪問は今回で5回目とのことであった。

今回の参加者は私共夫婦も含めて合計15名であった。初めてお目にかかった方々はいずれも私よりも10〜20歳ご年長で、ご体調が必ずしも万全とはいえない方もおられたが、皆さんがご無理をされずに、今回の旅行を楽しく過ごしておられたことが印象的であった。新しく参加したメンバーは私共のほか3人おられ、会全体が大変和やかな雰囲気で、全員がすぐに打ち解けてお話するようになった。

初日には全日空機を使って13時過ぎに稚内空港に到着した。その後はチャーターしたバスで、宗谷岬(昼食も含む)とノシャップ岬を訪れ、途中、開基100年記念塔・北方記念館や北防波堤ドームを見学した。
記念塔は月曜のため休館と予想されていたが、観光シーズン中ということで幸いにも入場できた。帰途、稚内副港市場に寄り、ショッピングを楽しむとともに旧稚内桟橋駅、そして活気を呈していた頃の近隣商店街を再現した2つの展示を見た。
宿泊は同日、翌日そして最終日と、稚内駅近くの全日空ホテルであった。泊まった日の夕食もそこで皆さんとご一緒したが、なかなかよろしかった。また、シーズンとはいえ、朝5時に朝食をとれるのには驚いた。
 



2日目には、朝7時10分稚内発のJR宗谷本線に乗って豊富駅に下車し、以後はチャーターしたバスで移動しながら、北海道北部の酪農の発祥地である宮の台展望台、パンケ沼、サロベツ湿原センター周辺、と幌延町を中心に広がる広大なサロベツ湿原の展望を1日ゆったりと楽しんだ。初日には寒さが予想以上に厳しかったが、この日からはまずまずといった涼しさになった。
午前中には面白い施設をいくつか訪問した。まず、処理済核燃料廃棄物を地中に長期保存するための調査を主な目的とした幌延深地層研究センター「地創館」を見学し、核廃棄物の保存の安全性などについて熱心な質問が出された。皆さんの突っ込みはなかなか深く、解説して下さった事務系職員の方が、時々たじたじとされていた。
その隣にある幌別町トナカイ観光牧場では、元気なトナカイを初めて身近に見た。続いて訪ねた金田心象書道美術館(心象館)では、地元出身の書道の大家の作品を鑑賞した。昼食をとった食堂の隣のサロベツ湿原センターでは、湿原に関する詳しい展示があった。帰路は行きと同じコースで夕方に稚内に戻った。

3日目には、ホテルをいったんチェックアウトして朝6時50分稚内港発のフェリーボートに約2時間乗船して礼文島の香深港に着いた。そのあと観光バスで礼文島を3時間で一周した。澄海(スカイ)岬、礼文アツモリ草をはじめとする高山植物園、スコトン岬、猫岩、桃岩などの名所は、確かに絶景続きであった。昼食で名物のウニ丼に舌鼓を打ったのち、香深港発宇遠内間1時間強のクルージングを楽しんだ。
クルージングは昨年始まったそうで、本来は午後に1便10人だけが行けるはずだったが、昼食時に電話があって船長のご厚意でもう1便出してもらえ、2度に分かれて全員乗船できた。午前中のツアーは、率直に言って各場所をじっくり眺めるには時間不足であった。しかし、それもこのクルージングで帳消しとなって、おつりまでもらったような気分になれた。
この日の天気は初め曇りがちであったが、午後には次第に晴れてゆき、対岸の利尻山が次第にくっきりと見えていった。バスからみた猫岩、桃岩、地蔵岩の海からの眺めは、陸からみた風景とはまた違って素晴らしかった。アザラシの生息地も間近に観察できた。
宿泊はフェリーの発着場のすぐそばの礼文ホテルで、ここの食事も大変美味であった。



   
ノシャップ岬方面を見る




香深港と利尻富士

4日目には朝9時10分に香深港発のフェリーボートに40分ほど乗って利尻島の沓形港に着き、その後タクシーで鴛泊港に移動し、昼食後に定期観光バスで4時間半をかけて島を一周した。


周囲800メートルで晴れた日には利尻の「さかさ富士」が見事だという姫沼(残念ながらこの時には曇っていたが)、旧鬼脇村役場の懐かしい木造建物を活用した利尻島郷土資料館、周囲約1500メートルの風光明媚なオタドマリ沼、ゴマアザラシの子供2匹が泳ぐ、海岸に近い仙法師御崎公園を順に訪れた。
そのあと車内から2つの奇岩、寝熊の岩と人面岩を見たのち、沓形登山口から利尻山をしばらくバスで登り、五合目近くで下車して各人が徒歩で階段を登り、見返台園地展望台に達した。この日の天候は、午前中は曇りがちだったが、次第に晴れ間が多くなり、利尻富士の麗姿をしばしば目にすることができた。
とくに最後の展望台では100段の階段を我慢して登ったあと、頂上まで雲のない利尻山を見ることができ、皆さんが感激されていた。利尻山の全貌を眺められることはめったに無いことだそうで、それだけでもはるばる来た甲斐があったと思った。
ツアー終了後まもなく鴛泊港午後5時10分発のフェリーボートに乗り、7時15分頃、稚内に戻り、全日空ホテルに再び1泊した。




 利尻山見返台公園にて

最終日には10時45分にホテルのロビーに集合し、ホテル前に停まる路線バスによって稚内空港に移動して解散し、その後各自帰途についた。

今回、初めて参加した「旅行グルメ同好会」の旅は、予想を上回る素晴らしいものであった。長年のご経験に基づき、すぐれた企画を立てて下さった慶田さんに改めて厚く御礼申し上げたい。また、以前からのメンバーの石さん(昭38法)が、現地で細かな点に至るまでお気遣い下さり、全行程を安心して過ごすことができたことに心より感謝申し上げる。

第48回舞洲テニスツアーの報告

平成25年3月17日(日)に大阪舞洲のシーサイドテニスガーデンで開催しました。今回は会場が京阪神から近くにあり、交通の便もよいことから、初めて日帰りのツアーとしました。





当日は絶好の天候に恵まれ、大阪湾を眺めながら快適なテニスツアーを楽しむことができました。試合は午後1時から4時までと時間が限られていましたので、1試合は6ゲーム先取とし、各自3試合を行いました。優勝は若手建築士の久武正明さん(平成3工卒)、2位は女性の吉田利子さん、3位は長老の田中寿一さんで、夫々優勝カップか賞品を授与されました。


試合の後、会場をテニスコートの近くにあるロッジ舞洲に移して、午後5時から懇親会を開催。今回は日帰りのため、帰りの車の運転をする人を考慮して、アルコール抜きの会食としました。田中さまから先日お亡くなりになられた澤田一雄さまのお話と、次回のテニスツアーについてのお話があり、また参加された皆様から、会員の近況報告をいただきました。




(幹事)石本徳三郎、飯田陽一





関西東大会のホームページへ



「旅行グルメ同好会」 鳴子・鬼首と日本海の旅(報告)

(旅行記)昭34薬 岡 良和

(スケッチ)昭32工 渋谷 寧伸


 平成11年関西東大会の「旅行グルメ同好会」の世話人を慶田雅洋さん(昭30農)が引き継がれた時、関西東大会の人達は東大を出たといっても在職中は忙しくて東日本を旅した経験は少ないのではないかというわけで、秋田、山形地方の日本海側の地域を巡る3泊4日の旅を企画され、それ以来13年間、年2回、この間二度の奄美群島への旅もあったが、主として名古屋以東、北は北海道まで旅を続けてきた。慶田さんは在学中から東大の旅行研究会に所属され、以後も旅行を趣味として全国を巡っておられるので、いわばその蘊蓄の一部を分けていただこうという旅である。旅程はすべて慶田さんが細かく設計されるが、宿泊ホテルや訪問場所、施設などすべて慶田さんが訪れたことがある所から選定され、そうでない所は最近少しご不自由になられた身体をいとわず、奥様を伴われて事前に必ず下見に行かれている。現地で慶田さんをサポートする幹事役として、前半は竹澤さん(昭37法)、現在は石崎さん(昭38法)がお世話され、これらの方々のご努力のお蔭で今日まで13年間続いてきた。


 「関西東大会」のステッカーをバスのフロントガラスに貼って東日本を走っていると、「カンサイヒガシタイカイ」と読まれることが多く、一体どういう大会かと訊かれたこともある。この旅行会の特徴は参加者全員が好奇心旺盛なことである。名所の風景を愛でるばかりではなく、その近辺にある小さな美術館、博物館、歴史館、個人記念館などを隈なく巡り、その中の展示物を見るのではなくて読むのである。あまりに熱心なので、その施設の館長や学芸員が出てきて説明してくれることも多く、そうなるとここぞとばかり質問が集中して、予定したスケジュールが遅れることがしばしばである。従って一回の旅行で移動する距離は比較的短い。4泊5日の北海道旅行と言えば、北海道の端から端まで行ったのかと思われるだろうが、第18回(平成20年)の旅行では4日間かけて十勝地方とその周辺だけをきめ細かく巡り、バスガイドを呆れさせた。翌年はやはり4泊5日で日高地方を回った。決して距離を欲張らず、日の高い間にホテルに入り、夕日を見ながら温泉に浸る。気分的にもゆったりとした旅、これがこの会の特色の一つとなっている。

 第27回目となる今回の旅行は13年前の第1回旅行と、11年前の第6回旅行の良い所取りをした言わばリバイバル旅行であった。参加者(夫婦4組と単身参加5名、計13名)は10月22日午後1時に東北新幹線古川駅に集合し、陸羽東線に乗り換えて鳴子温泉駅で下車、路線バスで鬼首に行って、ホテルオニコウベに投宿し2連泊した。ここは人里離れたスキー場に隣接したスイス風リゾートホテルで、周囲の山々は例年より少し遅れ気味の紅葉に彩られていた。




  リゾートパーク オニコウベにて




 鳴子温泉駅前


翌23日はこのホテルを拠点として、小型バスで主馬神社→鬼首温泉の間欠泉→封人の家→鳴子峡→尿前(しとまえ)の関跡→潟沼→温泉神社→日本こけし館と、周辺の名所旧跡を精力的に巡った。





 鳴子峡・大深橋のアーチをバックに


鳴子峡は紅葉真っ盛り、こけし館には東北各地から集められた各種のこけしが多数 集められているが、館内で「読む」ことによって、鳴子こけしを一目で見分けられるようになった。今回の旅行経路は松尾芭蕉の奥の細道と重なる部分が多かった。1689年芭蕉と曾良は鳴子温泉から尿前の関を通過して出羽に入ったが、風雨のため封人の家(関所の役人の家)に閉じ込められて2泊し、「蚤虱馬が尿する枕もと」の句を詠んだ。芭蕉が座った囲炉裏端でお茶をいただきながら管理人の説明を聞いた。

24日はJR新庄、余目、酒田経由で象潟(きさがた)に向かい、芭蕉が「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んだ蚶満寺(かんまんじ)を訪れた。この地域は有史前から鳥海山の噴火に伴う大地震による山崩れや地盤変動の多かった地域であるが、850年の大地震で地盤が沈下して潟となり、芭蕉が訪れた頃には火山岩からなる多数の小島に松が生えて、東の松島と並ぶ景勝地となっていた。それが1804年に起った大地震で付近一帯が隆起して再び風景が一変し、蚶満寺のある島やその他の小島群もすべて陸続きになってしまった。近くの展望台から眺めると、田園の中に松の生えた小山が点在して、まさに陸の松島といった風景である。寺の外には最近建てられた中国歴史上4大美人の一人、西施の石像もあった。日本海に沈む美しい夕日を眺めながら湯の田温泉酒田屋旅館に向かい、そこに2泊した。前日までの2泊とは対照的に、日本海に面した家族3人で営む古くて小さな温泉旅館である。13年前もここで1泊した。





 酒田屋からの日本海の日没

25日は貸切バスで海岸の岩に多数の仏像が彫刻された「十六羅漢」を見物した後、鳥海山のドライブウエイを五合目の鉾立展望台まで登った。あいにく山頂は雲がかかって見ることが出来なかったが、周辺の山々の紅葉が美しかった。秋田県側に下山して、にかほ市(旧金浦町)にある白瀬南極探検隊記念館を見学した。今から丁度100年前、1912年に日本人として初めて南極大陸に上陸した白瀬中尉はこの町の出身である。午後は最近芭蕉直筆の短冊が発見された象潟郷土資料館と、江戸末期から明治にかけて北海道でのニシン漁で成功を収めた青山留吉が故郷に建てた旧青山本邸を訪れた。

26日は晴れた鳥海山頂を眺めながら酒田市に向かい、郊外の公園内にある土門拳美術館を訪れた後、戦前まで庄内平野の大地主として栄えた本間家の旧屋敷と本間美術館、および庄内米の集積倉庫として明治時代に作られた山居倉庫を見学した。午後2時にJR酒田駅で解散して、今回も収穫の多かった旅を終えた。

この13年間、数多くの人々がこの関西東大会の旅に参加して来られたが、ここ数年はメンバーもかなり固定化してきている。市販のツアーでは味わうことの出来ないこのような手作りの旅に、是非一度参加してみられることを会員の皆様におすすめしたい。
続きを読む >>


calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< July 2017 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

links

profile

書いた記事数:697 最後に更新した日:2017/06/12

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM